雨風の強い夜に川を登ってくるもの
先日、数年ぶりに母方の実家へ行ってきたので、そこら辺にまつわる与太話を。
母方の実家は本当にド田舎で、今でこそ山の上の方に高架道路なんぞが通っているが、昔は山間を縫うように走る狭い道に沿うようにして家が並んでいて、村と言うよりは集落と言ってもいいような、そんな場所だった。
そんな場所だからかは知らないが、昔話やら伝承やら、そういった類の胡散臭い与太話には事欠かず、かく言う俺も、子供の頃からここを訪れる度に少なからず胡乱な体験をしていたりした。
※胡乱(うろん)
確かでなく、怪しいこと。うさんくさいこと。
今年は来なすったのか・・・
あれは、小学生の高学年か、もしくは中学生の始めの頃だったかと思う。
その日は朝から随分と暑く、俺は婆ちゃんの家の敷地内を流れる川べりで、魚やら虫やらを採るなり、涼むなりをして悠々自適に過ごしていた。
川と言っても石壁で両脇を囲われた用水路のようなもので、水位は当時の俺の足のスネ中程まであるかないか。
だが、両脇の壁自体がえらい高く、川底に降りれば大人でもすっぽりと隠れてしまうくらいある。
もっとも、玄関から出てちょっと左に行った所にある石階段を降りると足場があり、自由に降りることも出来るから、そんなに危ないというわけでもない。
村に水道が来る前までは、ここで野菜やら何やらを冷やしたり、ちょっとした洗い物などをしていたらしい。
そんなこんなで時間はあっという間に過ぎ、夕方に差し掛かった頃だろうか、どこからか強い風が吹き始めた。
陽が沈む頃には、雨を交えたそれが轟々(ごうごう)と唸りをあげながら猛威を振るっている。
その日、俺は婆ちゃんの家に通い始めてから初めて、そこでの台風というものを経験することになった。
夕食を終え風呂に入ると、爺ちゃんと婆ちゃんに「今日は早めに寝てしまえ」と言われた。
いつもなら夏休みとお泊りの特権を活かして23時くらいまで爺ちゃんとテレビなんぞ見ながら過ごすが、今日は天気が天気だ。
アンテナの調子も随分と悪いらしく、そもそもテレビがまともに映らない。
21時を回る頃には夜更かし派の爺ちゃんも自室に引込み、俺も布団を敷いた座敷に押し込められる事となってしまった。
だが、台風の夜特有の変な興奮と、婆ちゃんの家での初めての台風という二つの要因が俺のテンションを変なところに押し上げてしまい、なかなか寝付けない。
座敷の電気を一応消して、代わりに爺ちゃんの部屋から借りてきた電気スタンドの灯りを頼りに、家から持ってきた漫画を読みふけりながら、雨の音、風の音、家鳴りの音に胸がドキドキする。
それでも2、3時間もすれば、やがて眠気が勝ってくる。
少しずつウトウトとし始め、しばらく意識がプッツリと途切れたかと思った頃、俺はその奇妙な音を確かに聞いた。
「カアン、カアン」
雨と風と時々の家鳴りに混じって、そんな音が聞こえる。
小さな鍋底を棒で叩くというか、それよりはやや響きがあるというか。
音としては仏壇でお経を上げる時に使う、小さな木槌みたいなので叩く平たい鐘に近い感じだった。
それが、風のうなりや雨音が鳴り響く中の遠くから、だけどはっきりと聞こえてくる。
始めは自警団が見回りでもやってるのかな?と思ったが、時計を見ると既に午前の2時。
上手く説明は出来ないが、とにかく「何かおかしいな・・・」と思って部屋を出る。
俺が泊まっていた座敷は婆ちゃんの家でも奥まった場所で、とりあえず道路に面している玄関の方へ行ってみようと思った。
思ったのだが・・・、「カアン、カアン」、その音は何故か後の方から聞こえる。
振り返ると、そこにはカーテンの引かれたガラス戸があり、ガラス戸の向こうには裏手に広がる庭と、そして昼間に遊んだ川が見えるはずだ。
「カアン、カアン、カアン」
少しずつ音が近づいてくる気がして、俺は恐る恐るカーテンの隙間から外を覗く。
雨風の吹き荒れる庭と、背の高い壁に囲まれた川。
そして、「カアン、カアン、カアン」と、妙に響く鐘の音。
そのままじっと眺めていると、段々と音が近づいてきて、視界の隅で何かが揺れた。
・・・灯(あか)り?
川の方で小さな灯りがゆらゆらと揺れているのが見てとれた。
懐中電灯のような指向性のあるものではなく、まるで提灯(ちょうちん)か何かを下げているような、そんなぼやっとしたものだ。
川の深さのせいで、光源とそれを持っている何者かの姿を確認することは出来ない。
でも確かにそこからは灯りが漏れていて、それは少しずつ少しずつ川の中を進んでいっているようだった。
ゾクリ・・・と、背筋に寒いものが走る。
だが、同時にそれの正体を確かめたくもなった。
もしかしたら、夜回りの人が水が漏れていたりして危ない場所はないか調べているかも知れない。
いやいや、きっとそうであれば良いのに、と自分を納得させたかっただけなのかも知れない。
と、その時・・・、「○○くん、何しとるんや?」。
不意に後ろから掛けられた声に、俺は「ギャア!」と叫び出しそうになった。
それでも声が出なかったのは、逆にそれだけ恐ろしかったからなのだろう。
心臓をバクバクさせながら振り返ると、そこには爺ちゃんの姿。
「じ、じいちゃ・・・。なんか、あの、その、あれ・・・音・・・灯り?」
しどろもどろになりながら何とか状況を説明しようとするも、爺ちゃんは「ほれ、こっちこい」と、俺の手を取る。
ほとんどパニックになりかけていた俺は、導かれるままに爺ちゃんと囲炉裏のある部屋へと向かった。
爺ちゃんは俺を囲炉裏の傍に座らせると、その向かいに腰を下ろす。
その頃になると囲炉裏は既に現役ではなくなっていて、火棚や何やらは取り払われ灰を溜めておくスペースだけが残されていた。
そしてそこは、爺ちゃんの家での唯一の煙草飲み場であり、いつものように囲炉裏端に置いておいた『わかば』を引っ掴むと、ライターで火を灯し、ぷかりと煙をくゆらせる。
無論、その間も「カアン、カアン」という音は、台風の音にかき消されることなく響き続けていた。
「爺ちゃんの子供の頃からなあ・・・」
少しの間を置いて爺ちゃんが言う。
「何年かに一度、こういう雨風の強い夜になると、ああやって川を登ってきたもんでなあ」
「登る?」
「そうや、聞こえとるやろ?」
事も無げに言う。
「え、と・・・爺ちゃん、アレ何なの?」
俺の問いかけに爺ちゃんは、はてと首を捻り、「さてなあ。ただあの川はこの辺りを抜けたらそのまま海に繋がっとるからなあ。海から来とるんと違うかなあ」。
「何が?」と訊くと、爺ちゃんはやっぱり「さてなあ」と繰り返す。
「こ、怖くないの?」
俺が訊くと、爺ちゃんは「まあ、他に何するわけでもないからなあ」と、のん気なもの。
「・・・正体とか、知らんの?」
思い切って問いかけると、爺ちゃんはイヤイヤと首を横に振る。
「ありゃ川を登っていくだけや。それ以外はなんもせん。ならそれで良いんと違うかなあ。ほれ、もうあんなに遠くなっとる」
言われてふと気付く。
あの「カアン、カアン」という音は、随分と遠くなっていた。
「ここ三十年くらいはめっきり来なくなっとったけど・・・そうかそうか、今年は来なすったのか」
そう言う爺ちゃんの顔は、何だか懐かしいような、そんな表情をしていた。
結局、俺は何がなんだか分からないまま、爺ちゃんと一緒に囲炉裏端で一晩を過ごした。
あの音はいつの間にか聞こえなくなっていた。
先日、婆ちゃんの田舎に行った時、7歳になる甥っ子が川べりで遊んでいる姿を眺めていたら、なんとなくこの話を思い出した。
その時、隣に居た爺ちゃんに、「そう言えばあれから、アレはまた川を登って来たりしたんか?」と訊いてみた。
すると爺ちゃんは、「いいや・・・もしかしたらもう登って来なさらんのかも知れんなあ」と、寂しそうに答えてくれたので、少なくとも夢では無かったんだなと思う。
(終)