好意を寄せてくる姿なき同居人
これは、友人から聞いた不思議な話。
彼は転勤族で、若い頃からあちこちを転々としていた。
今までで一番良かった場所はどこかと聞くと、面白い話をしてくれた。
彼がまだ三十代初めだった頃のこと。
二回目の転勤で住み始めたアパートは、築年数のわりには綺麗な洋風の建物で、白い壁に赤い屋根という、ちょっと少女趣味の物件だった。
家は寝る場所という程度の認識しかなかった彼は、特に気にすることもなく住み始めたそうだが、すぐに『ここは何かある!』と気がついた。
時々、自分以外の何者かの気配がするのだという。
リビングで夕食を食べていると台所に、お風呂に入っていると脱衣所に、朝に目覚めると洗面所に。
そうして気配を感じた場所には必ず、小さな変化があった。
台所にはお茶が、脱衣所には着替えが、洗面所には新しいタオルが、という具合に、彼が心地よく生活できるようにフォローしてくれているようだった。
最初こそ驚き、気味も悪がって、家探しをしたりビデオカメラを仕掛けたりした。
しかし、どう考えても自分以外の人間が部屋の中にいるとは考えられなかった。
やがて彼は思い直した。
これは便利だ、と。
謎の気配は悪さをするどころか、痒いところの手が届くような絶妙さで自分を助けてくれる。
洗濯物にアイロンをかけてくれるようになった頃には、彼はその存在がなくてはならないものになってしまった。
上司からは「最近身綺麗だが、彼女でもできたか?」と、からかわれることもあったという。
一体どんな存在がこれらのことをしてくれているのかはわからなかったが、おそらく女性だろうと確信していた。
細やかな気遣いもさることながら、時折感じる優しい気配は確実に自分に寄せられる好意だった。
妖怪か幽霊かは不明だが、不思議と悪い気はしなかったという。
そんな生活は三年ほど続いたが、彼は転勤族、やがてまた辞令が下った。
最後の夜、彼は姿のない同居人に話しかけた。
「今までどうもありがとう。よかったら、次の場所にも一緒に来てくれないかな」
冗談半分、本気半分だったという。
しかし、自分に向けられている好意から、来てくれるのではないかと期待していたそうだ。
返事はなかった。
彼はそのまま、翌日そのアパートを後にした。
新しい住まいは巨大な墓石にも見える、素っ気ない建物だった。
そこでは食後のお茶や、お風呂上がりのタオルが用意されることは一切なかったという。
「俺に付いて来てくれるかもと思ったんだがなぁ。やっぱり家に憑いていたらしい」
彼は残念そうに溜息をついた。
「でも一度だけ、姿を見たことがあるんだ。と言っても、手首から先だけだがな。てっきり白魚のような手かと思っていたが、意外とごつかったよ。
ただ、あの手で入れるお茶はすごく美味かったなぁ。もう十何年も前の話だが、未だに忘れられんよ」
懐かしそうに言う彼は、未だ独身である。
(終)