霧に飲まれて下山を検討し始めたその時
これは夏になると思い出す、私の唯一の不思議な体験談。
もう十何年も前、長野県松本市から近い『美ヶ原高原』でのこと。
当時の叔母はハイキングや本格的な山登りが趣味の人で、私はその日も近隣の山を登り、美ヶ原へと抜けるコースを付き合わされていた。
入山して歩くこと数時間。
美しい景色や見たことのない鳥、私の天敵である山ヒルなど、一々大騒ぎする私を連れて叔母は順調に山道を進んでいた。
しかし、途中ですれ違った夫婦から「この先は霧が酷い」と助言を受け、私たちは近くの沢で休憩を兼ねて食事をとることにした。
水辺は涼しく、座るにも丁度良い大きさの岩も転がっており、一度座るとなかなか歩き出すことができない。
食事を広げて他愛のない話を叔母としていると、噂の霧が山頂の方から下りてきた。
あっという間に周りは霧に飲まれ、まるで雲の中のようだとテンションが上がる私と対照的に、叔母が難しい顔で下山を検討し始めた。
その時、唐突に叔母が私に「ん?何?」と聞いてきた後、「うわっ!何?何よ!?」と突然、沢に向かって倒れ込んだ。
私は「何してんだ?この人・・・」とゲラゲラ笑ったが、叔母は大真面目な表情で「なんかいる!猪?ぶつかってきた!」と、びしょ濡れで大騒ぎ。
叔母を立たせるために手を差し出そうと立ち上がると、背後から突然、“舌足らずで幼い声”が聞こえた。
「さんかいいくよ」
直後、どんっと突き飛ばされ、うわっと踏ん張る私。
どんっとさらに押され、堪らずつんのめる私。
どんっとダメ押しされ、とうとう私も沢に倒れ込み、呆然とする。
叔母共々ずぶ濡れに。
「ね?」と、謎の同意を求める叔母。
叔母に「子供の声がした」と訴えると、「あんたじゃなかったんだ、あれ」と言う。
二人して沢から上がると、程なくして霧も晴れた。
ただ、石の上に置いてあった食べかけのおにぎりが消えていた。
その後、「風邪ひくし今日の山はよくないね」と下山。
私の知る限り、それ以降は叔母は二度と山に入らなくなった。
(終)