怪物 「起」 3/5
いや、
始まりは昨日ではない。
怖い夢を見たという漠然とした記憶は、
かなり前から始まっていた。
この夏が始まる頃、
いや、あるいはもっと前から、
緩やかにそれは私の日常を侵食し、
そして、この街の中に
染み込んでいたのかも知れない。
誰にもその意味を気づかれないままに・・・
3本目の煙草を箱から出した時だった。
突然キーンという耳鳴りに襲われた。
まるで、周囲の高度が劇的に
変わったかのようだった。
『まずい。なにか起こる』
そう直感して、
とっさに姿勢を低くする。
全身を恐怖が貫いた。
けれど、いつまで待っても
何も起こらなかった。
恐る恐る身体を起こして、
周囲を見回す。
地面にも校舎の壁にも異変はない。
空を見てもさっきとなにも変わらない。
入道雲が高くそびえているばかりだ。
胸はまだドキドキしている。
そういえば耳鳴りがしたあの瞬間、
どこか遠くで雷のような音が
鳴ったような気がする。
目を閉じて耳を澄ましてみたが、
今はもう何も聞こえない。
耳鳴りもいつの間にか治まっていた。
「なんなんだ」
自分に問いかけて、
それから出しかけた煙草を箱に戻す。
授業に戻ろうかと考えて、
やっぱりやめることにした。
さっきの耳鳴りが、
なにか反復性のもののような気がして、
とっさに逃げ場のない教室には
戻りたくなかったのだ。
次に、
学校から抜け出してみようかと思った。
それは素晴らしい思いつきに感じられて、
いてもたってもいられなくなり、
学校の敷地から出るために、
塀をよじ登ることさえ苦にならなかった。
誰にも見つからず
抜け出すことに成功した私は、
川の方に行ってみるか、
それとも図書館に足を伸ばすか思案した。
真っ昼間に制服だと目立つなと
思いながら歩いていると、
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
救急車の音だ。
そう思った瞬間、
駆け出していた。
それは、
さっき耳鳴りがした瞬間に、
雷のような音が鳴った方角に
向かっているような気がしたからだ。
その時には、どこから聞こえたのか
分からなかったのに。
救急車のサイレンにキョロキョロとしている
通行人を追い抜き、
大通りを通り過ぎて路地裏に入っていく。
10分ほども走っただろうか。
ざわざわとした人の気配が強くなり、
角を曲がった時に
その光景が飛び込んできた。
商業地から住宅地に少し入ったあたりの、
寂れた2階建ての建物が並ぶ一角に、
救急車の赤いライトがくるくると回っている。
周囲には割れたガラスが散乱し、
何人かの人が、頭や腕を押さえて
道路に座り込んでいた。
野次馬がその周りをウロウロしている。
地面には血の跡がポツポツと落ちている。
けれど、
それ以上に私の目を惹くものが
地面に落ちていた。
石だ。
パチンコ玉くらいのものから、
子どもの握りこぶし大のものまで、
大小様々な石が周囲に散らばっている。
「落ちてきたって」
「雹(ひょう)が?」
「石だろ、石」
「雹じゃないの」
「空から落ちてきたんだって」
そんな言葉が辺りを飛び交っている。
雹という単語を聞いて、
思わず手に取ってみたが、
やはりそれは石だった。
どこにでもあるただの石だ。
公園や校庭に転がっていそうな。
空を見上げたが、
電線が一つ横切っているだけで、
あとは飛行機雲一つない。
その路地の100メートルくらい先まで、
石が乱雑に道路に飛散している。
ガラスも建物の窓が
石で割られたものらしい。
よく見ると、
家の瓦屋根が割れているのも目に付いた。
本当に石が、
この晴れた空から降ったのか?
天気雨のように?
そんなことがあるのだろうか。
隕石という言葉が頭に浮かんだが、
どう考えてもそんな大げさなものではない。
「どいてどいて」
道路につっ立っていると、
消防隊員に邪険にどかされた。
救急車が出るらしい。
私は少し考えてから、
その石を一つだけ、
スカートのポケットに入れた。
そして、
向こうからパトカーがやって
来ているのに気づき、
慌ててその場を離れる。
警察はまずい。
平日の真っ昼間に、
高校の制服を着たままだったからだ。
彼らは例外なく皆お節介で、
そして中高生のあらゆる非行が
学校をサボることから始まると、
固く信じている。
後ろ髪を引かれる思いで
その路地を後にした私は、
学校に戻ろうかとも考えたが、
5秒で却下する。
しばらく路地裏を目的もなく
うろうろしていたが、
ハサミを買うつもりだったことを思い出し、
近くの文房具屋に足を向けた。
(続く)怪物 「起」 4/5