怪物 「結」-下巻 1/5

夜道

前回の話・・・「怪物 「結」-上巻 1/5

暗い。

 

暗い気分。

 

泥の底に沈んでいく感じ。

 

私はやけに暗い部屋に一人でいる。

 

散らかった壁際にじっと座って、

なにかを待っている。

 

やがて外から足音が聞こえて、

私は動き出す。

 

玄関に立ち、

ドアに耳をつけて息を殺す。

 

暗い気持ち。

 

殺したい気持ち。

 

足音が下から登ってくる。

 

私はその足音が母親のだと知っている。

 

やがて、

その音がドアの前で止まる。

 

ドンドンドンというドアを叩く振動。

 

背伸びをしてチェーンを外す。

 

そしてロックをカチリと捻る。

 

手には硬い物。

 

私の手に合う小さな刃物。

 

ドアが開けられ、

ぬうっと青白い顔が覗く。

 

母親の顔。

 

見たことのない表情。

 

見たくない表情。

 

ドアの向こうには、

母親の背中越しに月。

 

真っ黒いビルのシルエットに

半分隠れている。

 

どこかから空気が漏れているような音がする。

 

それは私の息なのだろうか。

 

いや、私の身体には、

きっとどこかに知らない穴が開いていて、

 

そこから隙間風が吹いているんだろう。

 

私は入り込んでくる顔に、

 

話しかけることも、

笑いかけることも、

 

耳を傾けることもしなかった。

 

ただ手の中にある硬い物を握り締め、

暗い気持ちをもっと暗くして。

 

「・・・ッ」

 

悲鳴が聞こえた。

 

それは私が上げたのだと気づく。

 

動悸がする。

 

息が苦しい。

 

夢だ。

 

夢を見ていた。

 

身体を起こす。

 

ベッドの上。

 

天井から降り注ぐ光が眩しい。

 

明かりが点いたままだ。

 

時計を見る。

 

夜中の1時半。

 

服を着たまま、

いつの間にか寝てしまっていた。

 

手には、

じっとりと汗をかいている。

 

まだ何か握っているような感覚がある。

 

何度か手のひらを、

開いたり閉じたりしてみる。

 

辺りを見回すが、

特に異変はない。

 

粟立つような寒気だけが

身体を覆っている。

 

その時、

 

床に置いたラジオから、

奇妙な声が聞こえてきた。

 

ひどく間延びした音で、

笑っているような感じ。

 

夜の家は静まり返っている。

 

カーテンを閉めた2階の窓の向こうからも、

なんの音も聞こえない。

 

ただラジオだけが、

間延びした笑い声を響かせている。

 

私は思わずコンセントに走り寄り、

コードを引き抜いた。

 

ぶつりとラジオは黙る。

 

つけてない。

 

私は眠る前にラジオなんてつけてない。

 

なんなのだ、これは。

 

家電製品の異常。

 

まるでポルターガイスト現象だ。

 

私は机の引き出しを恐る恐る開け、

 

乱雑に詰め込まれた文房具の中から

(はさみ)を探し出した。

 

中学時代から使っている、

小ぶりな鋏。

 

手に持ってみたが、

特におかしなところはない。

 

ひとまずホッとして、

引き出しを閉める。

 

どういうことだろう。

 

今までの夢は明け方、

目覚める直前に見る明晰な夢だった。

 

※明晰(めいせき)

明らかではっきりしていること。

 

他の人たちの体験談も、

一様に同じだ。

 

しかし今のは、

1回目か2回目のレム睡眠時の夢だ。

 

今までだって本当は、

 

この眠りに就いてから

あまり経っていない時間帯にも、

 

同じ夢を見ていたのかも知れない。

 

ただ忘れてしまっているだけで。

 

でも、さっきのリアルさはなんだ?

 

明らかに今までの夢とは違う。

 

鋏を握る感触も、

はっきり残っている。

 

私は左手で自分の顔を触った。

 

そして、こう思う。

 

『こっちが夢なんてことはないよな』

 

母親に鋏を突き立てようとしている

少女こそが本当の私で、

 

今こうして考えている私の方が、

彼女の見ている夢なんていうことは・・・

 

なんだっけ、こういうの。

 

漢文の授業で聞いたな。

 

胡蝶の夢、だったか。

 

※胡蝶の夢(こちょうのゆめ)

胡蝶の夢とは、現実と夢の世界の区別がつかないことのたとえ。また、人生のはかないことのたとえ。ことわざ。

 

ありえないと首を振る。

 

だが少なくとも、

今までの夢とは緊迫感が違った。

 

恐怖心のあまり、

途中で目覚めてしまったのだから。

 

『夢・・・だよな』

 

私は恐ろしい想像をし始めていた。

 

真夏の夜の部屋の中が、

冷たくなって来たような錯覚を覚える。

 

これまでのは、

 

焦点となっているその少女の見ていた

殺意に満ちた夢が、

 

夜の街に漏れ出したもので、

 

今見たのは、

現実のドス黒い殺意が、

 

リアルタイムで私の頭に

干渉していたのではないか、

 

という想像を。

 

だとしたら、

さっきの光景の続きは?

 

もし、夢を見ながら、

 

彼女の殺意に同調していた

街中の人間たちが、

 

私のようにあのタイミングで

目覚めていなかったとしたら?

 

私は居ても立ってもいられなくなり、

部屋の中をぐるぐると回った。

 

油断なのか。

 

もう明日にも手が届くと思って、

だらしなく寝てしまった私のせいなのか。

 

でも、なにが出来たって言うんだ。

 

あんな遅くに間崎京子の家まで行って

似顔絵を描かせ、

 

それを手に、

 

またあの住宅街を聞き込みすれば

良かったのか?

 

せめて家の場所が特定できれば・・・

 

そう考えた時、

私は視線を斜め下に向けた。

 

待て。

 

ドアの向こうの景色。

 

月が半分隠れていたビルのシルエット。

 

夢の中の視線。

 

あのビルは知っているぞ。

 

市内に住む人間なら、

きっと誰でも知っている。

 

一番高いビルなのだから。

 

ビルの位置と月の位置。

 

それが分かるなら場所が、

 

それらが玄関の中からドア越しに

見えている家が、

 

ほぼ特定出来るかも知れない!

 

私は部屋を飛び出した。

 

そして階段を降りながら、

 

眠っている家族を起こさないように、

その勢いを緩める。

 

家の中は静まり返っていて、

父親のいびきだけが微かに聞こえてくる。

 

私は玄関に向かおうとした足を止め、

客間の方を覗いてみた。

 

いつもは2階で寝ている母親だが、

 

最近は寝苦しいからと言って、

風通しの良い客間で寝ているのだ。

 

襖をそっと開け、

 

豆電球の下で掛け布団が規則正しく

上下しているのを確認する。

 

良かった。

 

何事もなくて。

 

そして踵を返そうとした時、

 

暗がりの中、

鈍く光るものに気がついた。

 

それは、

私の右手に握られている。

 

さっきから右手が妙に

不自由な感じがしていた。

 

なのに何故かそれに気づかず、

目に入らず、

 

あるいは目を逸らし、

気づかないふりをして、

 

ずっとここまで持って来ていた。

 

鋏だ。

 

机の引き出しを閉めながら、

鋏は仕舞わなかったのだ。

 

右手に持ったままで。

 

逆再生のようにその記憶が蘇る。

 

全身の毛が逆立つような寒気が走り、

ついで目の前が暗くなるような眩暈がして、

 

私は鋏をその場に落っことした。

 

鋏は畳の上に小さな音を立てて転がり、

私は後も見ずに玄関の方へ駆け出す。

 

叫びたい衝動を必死で堪える。

 

ギィ、という、

やけに大きな音とともにドアが開き、

 

湿り気を含んだ生暖かい夜気が頬を撫でた。

 

外は暗い。

 

玄関口に据え置きの懐中電灯を手にして

駐車場へ向かう。

 

そして、

 

自転車のカゴにそれを放り込んで、

サドルを跨ぐ。

 

始めはゆっくり、

 

そしてすぐに力を込めて、

ぐん、と加速する。

 

『鋏を持ってた!無意識に!』

 

混乱する頭を風にぶつける。

 

いや、風がぶつかって来るのか。

 

私は今、自分がしていることが、

 

すべて自分自身の意思によるものなのか

分からなくなっていた。

 

もう、たくさんだ。こんなこと。

 

もう、たくさんだ。

 

寝静まる夜の街並みを突っ切って、

自転車を漕ぎ続ける。

 

空は晴れていて、

 

遥か高い所にあるわずかな雲が、

月の光に映えている。

 

この同じ空の下に、

目に見えない殺意の手が、

 

無数の枝を伸ばすように

今も蠢(うごめ)いているのか。

 

それに触られないように身を捩りながら、

前へ前へと漕ぎ進む。

 

※捩り(もじり)

ねじること。ねじったもの。

 

と・・・

 

耳の奥に風の音とは違う、

なにかが聞こえて来た。

 

聞き覚えのあるような無いような音。

 

人を不安な気持ちにさせる音。

 

夜の電話の音だ。

 

自転車のスピードを落とす私の目の前に、

暗い街灯がぽつんとあるその向こう、

 

公衆電話のボックスが現れた。

 

音は、そのボックスから漏れている。

 

DiLiLiLiLiLiLi・・・・・・

DiLiLiLiLiLiLi・・・・・・

 

と、息継ぎをするようにその音は続く。

 

ばっく、ばっく、と心臓が脈打つ。

 

お化けの電話だ。

 

そんな言葉が頭のどこかで聞こえる。

 

誰もいない、夜の電話ボックス。

 

私は自転車を脇に止め、

 

なにかに魅入られたようにフラフラと

それに近づいていく自分を、

 

どこか現実ではないような気持ちで、

まるで他人ごとのように眺めていた。

 

擦れるような音を立てて内側に折れるドア。

 

中に入ると自然にドアは閉まり、

 

緑色の電話機が天井の蛍光灯に

照らされながら、

 

不快な音を発している。

 

私はそろそろと右手を伸ばし、

受話器を握り締める。

 

フックの上る音がして、

 

Lin、という余韻を最後に

呼び出し音は途絶える。

 

この受話器の向こうにいるのは誰だろう?

 

そんなぼんやりした思考とは別に、

心臓は高速で動き続けている。

 

「もしもし」

 

声が掠れた。

 

もう一度言う。

 

「もしもし」

 

受話器の向こうで、

笑うような気配があった。

 

『・・・行ってはいけない』

 

この声は。

 

そう思った瞬間、

脳の機能が再起動を始める。

 

間崎京子だ。

 

この向こうにいるのは。

 

『鉱物の中で眠り、

植物の中で目覚め、

 

動物の中で歩いたものが、

 

ヒトの中でなにをしたか、

わかって?』

 

冷え冷えとした声が、

ノイズとともに響いてくる。

 

「何故だ。

どうやってここに掛けた」

 

沈黙。

 

「お前も見たのか。あの夢を。

行くなとはどういうことだ」

 

コン、コン、コン、と、

せせら笑うような咳が聞こえる。

 

『・・・その電話機の左下を見て』

 

言われた通り、視線を落とす。

 

そこには銀色のシールが貼ってあり、

電話番号が記されている。

 

この電話機の番号だろうか。

 

(続く)怪物 「結」-下巻 2/5

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