貯水池 3/5

貯水池

 

僕の言葉に、

師匠も首を捻って後部座席を一瞥する。

 

※一瞥(いちべつ)

ちょっとみること。ちらっと見ること。

 

そして、

 

ダッシュボードから雑巾を取り出した

かと思うとこちらに放り、

 

「拭いといて」

 

と言った。

 

唖然としかけたがすぐに理性が反応し、

 

座席を倒して、

 

腫れ物に触るような手つきで

後部座席のシートの水を拭き取ると、

 

師匠の顔を見て頷くのを確認してから、

手動でくるくるとウインドガラスを下げ、

 

開く時間も惜しんで、

僅かな隙間から外へとその雑巾を投げ捨てた。

 

まだ心臓がドキドキしている。

 

手についた少量の水分を、

 

おぞましい物であるかのように

ジーンズの腿に擦り付ける。

 

車はすでに対向車のある

広い道に出ている。

 

それでも嫌な感覚は消えない。

 

動悸が早くなったせいか、

車のフロントガラスが曇り始めた。

 

「これはちょっと凄いな」

 

師匠の口調は、

すでに冷静なものに戻っている。

 

しかし、

 

その言葉の向かう先を見て、

僕の心臓は再び悲鳴をあげる。

 

フロントガラス一面に、

手の平の跡が浮かび上がって来たのである。

 

外側ではない。

 

ワイパーが動いている。

 

内側なのだ。

 

フロントガラスの内側を撫でると

皮脂がつくのか、

 

そのままでは何も見えないが、

 

曇り始めた途端にその形が

浮かび上がって来ることがある。

 

まさにそれが今起こっている。

 

けれどやはり、

僕らは乗せてなんかいないのだった。

 

貯水池の幽霊なんかを。

 

師匠は自分の服の袖で正面のガラスを、

一面の手の平の跡を拭きながら、

 

「やっぱり捨てなきゃよかったかな、雑巾」

 

と言った。

 

カーステレオからは、

 

稲川淳二の唾を飲み込むような

声が聞こえてきた。

 

話を聞いてなんかいなかった僕にも、

 

これから落とすための溜めだと

いうことがわかった。

 

やはり僕にはまだ笑えない。

 

情けないとは思わなかった。

 

怖いと思う心は、

防衛本能そのものなのだから。

 

けれど一方で、

その恐怖心に心地よさを覚える自分もいる。

 

師匠がチラッとこちらを見て、

 

「オマエ、笑ってるぞ」

 

と言う。

 

僕は「はい」とだけ答えた。

 

その夜はそれで解散した。

 

「ついてきてはないようだ」

 

という師匠の言葉を信じたし、

僕でもそのくらいはわかった。

 

3~4日経ったあと、

師匠の呼び出しを受けた。

 

夜の10時過ぎだ。

 

自転車で師匠のアパートへ向かい、

ドアをノックする。

 

「開いてる」という声に、

「知ってます」と言いながらドアを開ける。

 

師匠はなぜかドアに鍵を掛けない。

 

「防犯って言葉がありますよね。

知ってますか」

 

と溜息をつきながら部屋に上がる。

 

師匠は「防犯」と言って、

壁に立てかけた金属バットを指差す。

 

なんか色々間違ってる人だが、

いまさら指摘するまでもない。

 

「ここ家賃いくらでしたっけ」

 

と問うと、

 

「月1万円」

 

という答えが返ってくる。

 

ただでさえ安いアパートで、

 

この部屋で変死者が出たという

曰くつきの物件であるために、

 

さらに値引きされているのだそうだ。

 

「あの貯水池、

やっぱり水死者が出てたよ」

 

本当に師匠は、

こういうことを調べさせたら興信所並みだ。

 

言うには、

あの貯水池で数年前に、

 

若い母親が生まれたばかりの

自分の赤ん坊と、

 

入水自殺したのだそうだ。

 

まず赤ん坊を水に沈めて殺しておいて、

 

次に、自分の着衣の中にその赤ん坊と

石を詰めて浮かび上がらないようにして、

 

足のつかない場所まで行って溺れ死んだ、

という話だ。

 

「じゃあ、あれは、

その母親の霊ですか」

 

「たぶんね」

 

では、何故迷い出てきたのだろう。

 

「死にたくなかったからじゃないか」

 

師匠は言う。

 

死にたくはないけれど、

死ななくてはならないと思いつめていた。

 

その死にたくないという思いを

押さえ込むための重しが、

 

服に詰めた赤ん坊の死体であり、

石だった。

 

そしてそれは死んだのちも、

この世に惑う足枷となっている・・・

 

「フェンスのウチかソトかっていうのは、

そのアンヴィヴァレントな不安定さのせいだね。

 

※アンヴィヴァレント

両義性。「可愛さ余って憎さ百倍」のように、愛と憎しみが同時にあることなど。

 

乗せてくれという右手と、

 

乗ってはいけないという

フェンスの内側という立ち位置」

 

「車に乗せてたら成仏してたわけですか」

 

「さあ。乗せてみたら

わかるんじゃないかな・・・」

 

師匠の言葉は、

どうしてこんなに蠱惑的なのか。

 

※蠱惑的(こわくてき)

人の心をひきつけ、まどわすさま。

 

僕はもう、

今夜呼び出された目的を理解していた。

 

「じゃあ行こうか」

 

師匠が車のキーと、

金属バットを持って立ち上がる。

 

「いくらなんでもそれは、

職質されたらまずいですよ」

 

と言う僕に、師匠は、

 

「野球好きに見えないかな」

 

と冗談めかし、

 

「鏡を見て言ってください」

 

と返したが、

 

そもそもそういう問題なのか

という気がして、

 

「なんの役に立つんですか」

 

と重ねるも、

 

「防犯」

 

というシンプルな答え。

 

もういいや、なんでも。

 

僕も覚悟を決めて、

師匠の車に乗り込んだ。

 

今日は雨が降っていない。

 

(続く)貯水池 4/5

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