貯水池 5/5

貯水池

 

ただ怖いもの。

 

危険なもの。

 

嫌なもの。

 

そして、

絶対に助からないもの。

 

水面から続く泥の筋が、

まるで臍(へそ)の緒のように伸びている。

 

僕は混乱する頭で、

なにをするべきか考えた。

 

母親の魂が救われる手助けをしようと

したからこうなったのか。

 

だったら、

 

もうそんなことはしないということを

伝えなければ。

 

そう思っても、

 

その小さくて黒いものに向かうと、

何故か声が掠れて出てこないのだった。

 

貯水池のまわりを走り回って逃げる?

 

閉じられたフェンスの囲いの中で、

ずっとそうしてるというのか。

 

僕は心が折れていくのを感じていた。

 

ジーンズのお尻が冷たい土の感触にふれ、

ああ僕はもう座り込むしかないんだなと、

 

現実から乖離したような思考が

ふわふわと漂った。

 

次の瞬間、轟音がした。

 

タイヤがアスファルトを引っ掻く音とともに、

車のフロントがフェンスに突っ込んできた。

 

金属の焦げたような匂いがして、

 

フェンスが風を孕(はら)んだように

大きくひしゃげている。

 

たわんだ金網の破れ目から、

何かを叫びながら師匠が手を伸ばした。

 

僕はその瞬間に立ち上がり、

 

金属の鋭利な突起に服を引っ掛けながらも、

脱出することに成功する。

 

すぐに車はタイヤをすり減らしながら

強引にバックで金網から抜け出し、

 

僕を助手席に乗せて走り出した。

 

後ろは振り返らなかった。

 

そのわずかな間に、

色々なことを考えたと思う。

 

でも、もう覚えていない。

 

そして僕は助かった。

 

師匠のアパートに戻ってきた時、

 

鍵も掛けてないドアをあっさりと捻ると、

なぜだか笑いが込み上げてきた。

 

このオカルト道の先達にとって、

 

本当に怖いものは

鍵など通用しない存在なのだと、

 

今さらながら気づいたのだ。

 

ドアはドアでありさえすればよく、

 

鍵は緊急時の自分の行動を

制限してしまうだけなのだと。

 

「怖い目に遭わせたなぁ」

 

部屋の電気をつけながら、

師匠はあまり済まなそうでもなく言う。

 

「ちびりました」

 

僕の言葉に師匠は、

 

「男物の下着はないぞ」

 

と嫌な顔をした。

 

「冗談ですよ」

 

と返しながら、

僕は車のことを謝った。

 

フロントに傷がついてしまったはずだ。

 

それよりも、

あの破壊したフェンス・・・

 

「なんとでもなる」

 

そんなことよりスパゲティの

残りを食うかと言って、

 

師匠はあと200グラムほど残った束を

ほぐし始めた。

 

「ダイエットじゃないんですか」

 

と声を掛けると、

 

「パワー不足を痛感した」

 

と言って、

 

後ろも見ずに壁に立てかけた

金属バットを指差す。

 

「防犯なら、それよりも、

ボディーガードを置きませんか」

 

僕なりに、真剣な意味を込めて

言ったつもりだった。

 

それが伝わったのか、

師匠は台所からきちんとこちらに振り向いて、

 

「さっきの霊が背中にくっついて来てるのに、

気づかないやつには無理だな」

 

と言った。

 

僕は悲鳴をあげて飛び上がった。

 

「ウソだウソ」

 

笑う師匠。

 

ウソと笑える神経がわからない。

 

服の内側、

背中一面に泥がついている。

 

なぜ気づかなかったのか。

 

血の凍るような恐怖を感じながら、

僕は背中に手をやって悶え続ける。

 

金属バットに足が当たって、

ガランという音を立てる。

 

ウソだよウソ・・・

 

師匠の声が、ぐるぐると回る。

 

「このクソ女!」

 

確かそう叫んだはずだ。

 

その時の僕は。

 

 

師匠の長い話が終わった。

 

大学1回生の冬の始めだった。

 

俺はオカルト道の師匠のアパートで、

彼の思い出話を聞いていた。

 

「これが、

その時のバットでついた傷。

 

まったく、

ただの泥にえらい醜態だった」

 

そう言って、

壁の削れたような跡を指差す。

 

俺はまるでデジャヴのような

感覚を覚えていた。

 

※デジャヴ

実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じること。既視感(きしかん)ともいう。

 

「まるで今の俺みたいですね」

 

師匠も1回生の頃は、

そんな情けない青年だったのか。

 

今からたった4~5年前の話なのに。

 

「情けなかったとも思わないけどなぁ。

 

あの人みたいな化け物と一緒にされると、

そう聞こえるかも知れないけど」

 

師匠の師匠、

 

当時大学院生だったという女性は、

加奈子さんといったそうだ。

 

彼女がいなくなったあと、

 

師匠は空き部屋になった彼女の部屋に

移り住んだらしい。

 

つまり、今のこの部屋だ。

 

「でも、当時の家賃が1万円って、

今より千円も高いじゃないですか」

 

値上げするならまだしも、

 

値下げされるなんて、

よっぽど酷い物件なのだろう。

 

「その加奈子さんって人は、

今はどうしてるんです」

 

師匠は急に押し黙った。

 

目が昏い光を帯びてくる。

 

そしてゆっくりと口を開き、

 

「死んだ」

 

と言った。

 

この部屋の家賃が下げられた理由が、

わかった気がした。

 

けれど、

 

いつどこでどうして、

ということを続けては聞けなかった。

 

何事にも順序というものがあり、

 

師匠が師匠になるまでに

然るべき段階があったように、

 

一人の人間がこの世からいなくなるのにも、

相応しい因果があるのだろう。

 

その彼女の死は、

 

師匠の秘密の根幹ともいうべき

暗部であるという、

 

確信にも似た予感があった。

 

ただその時、彼女はまだ、

 

少しはにかみながら

師匠が語る思い出話の中で、

 

不思議な躍動感とともに

息づいていたのだった。

 

(終)

次の話・・・「エレベーター 1/4

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