その声の主は一本の古い松の巨木だった
これは、知り合いの体験話。
彼が仕事で山に一人籠もっていた時のことだ。
焚き火の前に座っていると、何処からか「おーい」と呼ばわる声がした。
怪訝に思って声の主を探しに向かったところ、一本の古い松の巨木に行き当たる。
幹の表面がテラテラと光っており、そこから「おーい」という声が発していた。
「何だこりゃ、気味が悪い」
声を出す以上の怪異は起こっていなかったので、さっさとそこから逃げ出した。
もうあの辺では野宿は出来ない
後で地元の老猟師に聞いたところ、長い年を経た松脂は化けることがあるそうで、怪しい光を発したり、声を上げて人を惑わしたりするという。
これがもっと歳月を重ねると、『ほごえ』と呼ばれる物の怪へ変じるのだと。
そうなると自力で動けるようになり、松の木から離れ歩き回るようになるらしい。
ほごえは動物を襲って喰らうとも言われているので、「もうその辺りでは野宿をしない方が良かろう」とも忠告されたそうだ。
そして、彼はこう話す。
「それからしばらく経ってからだけど・・・、その山でまた『おーい』と呼ぶ声が聞こえたんだ。やっぱり夜中のことでね。あの時の声とまったく同じ調子に思えた。さすがにもう声の主を探したりなんかしなかったよ。でも前の時とは様子が違っていて・・・」
その夜に聞こえた「おーい」という声は、彼の方へ段々と近づいてきたのだという。
「声が寄ってくるのに気が付いた時は本当に驚いてしまってね。正直なところを言うと、とても怖かった。夜の山を歩くのは嫌だったけど、火の始末をしてすぐに逃げ出したよ。ちょっとの間は後を付いてきたけど、やがて聞こえなくなったんでホッとした。ほごえとか完全に信じてる訳じゃないけど、もうあの辺では野宿は出来ないなぁ」
難しそうな表情で、彼はそう言っていた。
(終)