雨上がり 2/2
あの人が『少し若く見える私』
と表現していたのを思い出す。
つまり、
あの人にしか見えず、触れず、
知覚できなかった『半身』は、
いつか喫茶店の誰もいない椅子に
座っていたその『半身』は、
髪が長かった頃のあの人の姿を
していたのだろう。
目が見えず、
手が触れられない場所にいた彼女は、
人知の及ばない何らかの方法で
その『半身』を見、
そして捕らえた。
あの人を手に入れたつもりで。
そして『半身』と『悪夢』は消えた。
あの人は、
あの人を長年苦しめ惑わせた
ふたつのものから、
同時に解き放たれた。
そして去っていった。
「ラ・マンチャの男は相変わらずかしら」
※ラ・マンチャの男(wikipedia)
美しい旋律のような声が踊る。
すぐにその言葉の意味を理解する。
ナイトだと言いたいのだろう。
あの人を守った人物のことを。
「相変わらずホラを吹いています」
少し上擦ってしまったその言葉に、
彼女は満足したように微かに頷く。
今にして考えることであるが、
彼女が彼のことをラ・マンチャの男に
例えた裏には、
あの人のドルシネア姫でありながら、
またアルドンサでもあるという
二面性を暗に物語っている。
このことは、
のちに彼の秘密に近づいた時、
その真の意味を知ることになるのだが、
それはまた別の話だ。
沈黙があった。
少し前に飛び立った、
カラスの気持ちがわかる。
今このバス停の周囲には、
二人のほか動くものの影ひとつない。
ただやわらかな大気に包まれているだけだ。
彼女のいる方向を、
「空間が歪んでいる」
と、以前あの人が語ったことを思い出す。
目を閉じたままでいると、
まるで眠っているように
穏やかな横顔だった。
彼女は少なくとも、
高校時代には盲目ではなかったはずだ。
一体なぜ視力を失うに至ったか、
想像することも躊躇われる。
もし視力を失っていなければ、
そして奇跡のような取り違えが
起こらなければ、
とてもあの人や彼が敵う相手ではなかった。
推測などではなく、
わかるのである。
格などという言葉は使いたくない。
使いたくはないけれど、
つまりそういうことなのだった。
排ガスのにおいをまといながら、
バスがやって来た。
その瞬間に、
このバス停を覆っていた
不思議な膜のような空気が、
霧消したような錯覚があった。
解放されたのだろう。
少し離れてバスは止まり、
ドアが開いた。
自分が乗るつもりだったバスだろうか。
なぜか思い出せない。
どこに行こうとしていたのか。
しかし、
これに乗らなくてはならない。
そんな気がした。
ベンチから立ち上がり、
笑いそうな膝を奮い立たせて歩く。
「これを」
彼女がそう言って、
すっきりと伸びた首元から、
ペンダントのようなものを取り出した。
タリスマンだ。
あの人が以前、
五色地図のタリスマンと呼んだ物。
「どこかに捨てて。
もうわたしにはいらないものだから」
彼女が初めてこちらを向いた。
足を止め、
正面からその顔を見る。
「さあ」と言って手を伸ばし、
目を閉じたまま微笑を浮かべるその顔を、
生涯忘れることはないだろう。
こんなに綺麗な人を見たことがない。
このあとの人生の中で、
どんなに美しい人を見たとしても、
あれほどの深い感動を受けることは
ないと思う。
吸血鬼と謗られたことなど、
まるで取るに足りない。
※謗られる(そしられる)
人格や行動などが他人に否定されたり軽蔑されたりすること。
そんな言葉では彼女の側面を
語ることさえできない。
そう思った。
「さあ」
もう一度、
彼女は笑うように言う。
震える手で受け取った。
ジャラリと鎖が鳴る。
微かに錆の匂いがした。
不思議な模様が、
円形のプレートの一面に描かれている。
けれど、
それだけだ。
『この世にあってはならない形をしている』
と称された物とはとても思えない。
平面に描かれたどんな地図も、
必ず4色以内で塗り分けられるという。
試すまでもなくわかる。
きっとこれも4色ですんなりと
塗り分けられるのだろう。
少なくとも、
彼女の手を離れた今は。
遠慮がちにクラクションが鳴らされる。
昇降口にそっと足を掛ける。
二度と会うことはないだろう、
彼女に背を向けて。
乾いた空気の音とともに扉が閉まる。
別の世界へ通じるドアが、
またひとつ閉じたのだった。
やがて間の抜けたテープの音が、
次の目的地を告げる。
動き出したバスに揺られ、
衝動的に振り返った。
彼女がまるで最初からいなかったかのように
消えてしまっている気がして。
けれど、
揺れる視界の中で、
一枚の絵のように
切り取られた窓の中で、
遠ざかりつつある雨上がりのバス停に
彼女はいる。
そしてベンチから立ち上がり、
白い杖をついて、
ゆっくりと、
ゆっくりと歩き出そうとしている。
その細く長い足が、
戸惑うような頼りない足取りで
水溜りを跳ね、
それが淡く銀色に輝いて見えた。
彼女を見た最後だった。
(終)
次の話・・・「ともだち 1/2」
解き放たれたあの人はなぜどこへ……