雨上がり 1/2

バス停

 

昨日から降っていた雨が朝方に止み、

 

道沿いにはキラキラと輝く水溜りが

いくつも出来ていた。

 

大学2回生の春。

 

梅雨にはまだ少し早い。

 

大気の層を透過して、

やわらかく降り注ぐ光。

 

軽い足取りで歩道を行く。

 

陽だまりの中に佇むようにバス停があり、

 

ふっと息を吐いて、

木目も鮮やかなベンチに腰を掛ける。

 

端の方に、

すでに一人座っている人がいた。

 

一瞬、

知っている人のような気がして驚いたが、

 

すぐに別人だとわかり、

深く座り直す。

 

髪型も全然違う。

 

それに、

 

あの人がここにいるはずは

ないのだから。

 

バスを待つ間、

 

あの人に初めて会ったのは

今頃の季節だっただろうかと、

 

ふと思う。

 

いや、確かもう、

梅雨が始まっていた頃だった。

 

1年足らず前。

 

彼女は別の世界へ通じるドアを

開けてくれた人の一人だった。

 

そのドアを通して、

 

普通の世界に生きている人間が

何年かかったって、

 

体験できないようなものを見たり、

味わったりしてきた。

 

もちろんドアなんてただの暗喩だ。

 

※暗喩(あんゆ)

物事を何か他のものに例えて説明する際、表現上では「まるで~」「~ごとし」「~ようだ」のようなたとえの形式になっていないもの。隠喩ともいう。

 

けれどそれが、

 

そこにあるもののように感じていたのも

事実だった。

 

そのドアのひとつが閉じた。

 

もう、開くことはないだろう。

 

春が来た頃ひっそりと仕舞い込まれる

冬色の物のように、

 

彼女は去っていった。

 

そのことを思うと、

ひどく感傷的になる自分がいる。

 

結局、

気持ちを伝えることはできなかった。

 

それが心の深い場所に澱のように溜まり、

そして渦巻いている。

 

目の前でカラスが一羽、

鳴いて飛び立った。

 

誰も通る者もいない春のバス停で、

まどろむようにそんなことを考えている。

 

「夢を見るということは、

・・・・・・に似ているわ」

 

空からピアノの音色が聞こえた。

 

そんな気がした。

 

ベンチの端に座っている女性が、

前を向いたままもう一度言った。

 

「夢を見るということは、

・・・・・・にも似ている」

 

春のやわらかな地面から、

氷が沸いてくるような感覚があった。

 

それがミシミシと心臓を締めつけ始める。

 

急に錆付いたように動かなくなった首を、

それでもわずかに巡らせて横を見る。

 

顔を覆うかのような長い黒髪の女性。

 

空色のワンピースからすらりと伸びた足が、

かなりの長身を思わせる。

 

もう一度言った。

 

「夢を見るということは、

・・・・・・」

 

また一部分が聞こえない。

 

いや、

 

聞こえているのに、

頭の中で認識されないような、

 

不思議な感覚。

 

彼女は目を閉じている。

 

「あなたは誰ですか」

 

わかっていた。

 

大脳の中の古い動物的な部分が

反応している。

 

彼女が誰なのか知っていると。

 

「あの子が持っているものが欲しかった。

 

手に入れても手に入れても、

蜃気楼のように消えた。

 

これも、あの子と同じ長さに

したつもりだったのだけれど」

 

彼女は左手で髪に触れた。

 

細く、しなやかな指だった。

 

「たったひとつしかないものを

永遠に手に入れるには、

 

方法はたったひとつしかない。

 

一度はそれに届いたと思ったのに」

 

この雨上がりの清浄な空気に、

あまりに似つかわしい涼やかな声だった。

 

「あの手触りが幻だったなんて」

 

すっと手を下ろした。

 

目を閉じたまま前を向いている。

 

その横顔から目を逸らせない。

 

わかり始めた。

 

同じ長さだったのだろう。

 

彼女にとって。

 

あの日、

あの人は自分の『半身』を失った。

 

その謎が今解けた。

 

「目が・・・」

 

見えないんですね。

 

そう言おうとして、

言葉が宙に消えた。

 

喋っているのに、

頭の中で認識されないような感覚。

 

肯定するように、

 

白い手がベンチの上に寝かせている

杖を引き寄せる。

 

「あの子のたったひとつしかないものは

手に入らなかったけれど、

 

代わりに素晴らしい世界をもらったわ」

 

音楽のように言葉が耳をくすぐる。

 

まるで麻薬だ。

 

その声をもっと聞きたい。

 

壊れやすい宝石のように会話は続く。

 

「夜がその入り口になり、

 

わたしは恋を知った少女のように

新しい世界を俟(ま)っている。

 

眠りが卵になり、

わたしはそれを抱いて温める。

 

そして夢を見るということは・・・・」

 

言葉が消える。

 

けれどわかる。

 

彼女はあの人の悪夢を手に入れたのだ。

 

悪夢を食べるという、

悪魔が呼ぶ悪夢。

 

あの人を苦しめてきた悪夢。

 

あの強い人が、

 

どんなことがあっても、

もう二度と、

 

ただの一度でも見たくないと言った、

その悪夢を。

 

彼女はなにかを呟いている。

 

聞こえているのに聞こえない。

 

まるで現実感がない。

 

太股をつねろうとして躊躇する。

 

彼女がそれを待っているような気がして。

 

あの人の『半身』は、

彼女によって消滅させられた。

 

彼女はそれを、

あの人だと思っていたのだ。

 

(続く)雨上がり 2/2

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