あの鏡の中に私じゃない誰かがいた

銭湯の洗い場

 

私は、貧乏なアパート暮らしの女。

 

お風呂がないので、いつも『銭湯』に通っている。

 

その日、いつもの店が休みだったため、少し離れた場所にある銭湯へ向かった。

 

浴室には数人のオバちゃんたちがいて、楽しそうにおしゃべりしていた。

 

髪を洗っていると、ふと視線を感じた。

 

洗い終えて顔を上げると、自分の前の鏡に、見知らぬお婆さんの横顔が映っていた。

 

そのお婆さんは、横目でこちらを見ていた。

 

本来なら、鏡には自分の正面の顔が映るはずなのに。

 

死ぬほど驚いた。

 

びっくりしすぎると声も出ないんだ、ってそのとき初めて知った。

 

慌てて後ろを振り返る。

 

けれど、そこには誰もいなかった。

 

いや、それどころか浴室全体に人の気配がない。

 

さっきまで賑やかに話していたオバちゃんたちは、いつの間にか全員、更衣室へ移動してしまっていた。

 

もう一度、恐る恐る鏡を見ると、今度はちゃんと自分の顔が映っていた。

 

けれど、あれは見間違いなんかじゃない。

 

体格もポーズも、自分とは明らかに違っていた。

 

白髪だったし、何より、目が合った。

 

慌てて私も浴室を出た。

 

洗えたのは頭だけで、体は洗えなかったけれど、それどころじゃなかった。

 

……怖いよ。

 

あのお婆さん、いったい誰だったの?

 

もう二度と、あの銭湯には行けない。

 

(終)

AIによる概要

この話が伝えたいことは、日常の中にふと現れる「説明のつかない恐怖」の存在です。ごく普通の銭湯という、ありふれた安心できる場所で起きた異常な体験。それによって、語り手の日常は一瞬で崩れ、不安と恐怖に飲み込まれてしまいます。

見間違いでは説明がつかない鏡の中の「知らないお婆さんの横顔」、振り返っても誰もいない浴室、さっきまでいた人たちが一斉に消えた静寂。その一つ一つが「現実なのにどこかおかしい」という違和感を積み重ね、読者にも語り手と同じ恐怖を追体験させます。

この話は、幽霊や怪異の存在をはっきりと描くのではなく、「確かに何かがおかしかった」というリアルな恐怖感を伝えています。そして、そうした得体の知れない存在は、時にごく普通の生活のすぐそばに潜んでいるかもしれない、という不安を残して終わるのです。

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