声 1/2

廊下

 

大学2回生の春だったと思う。

 

俺の通っていた大学には、

 

大小数十のサークルの部室が入っている

3階建てのサークル棟があった。

 

ここでは学生による

ある程度の自治権が守られ、

 

24時間開放という

夢のような空間があった。

 

24時間というからには24時間なわけで、

 

朝まで部室で徹夜マージャンをしておいて、

そこから講義棟に向かい、

 

授業中たっぷり寝てから、

部室に戻ってきてまたマージャンなどという、

 

学生の鑑のような生活も出来た。

 

夜、サークル棟にいると、

 

そこかしこの部屋から酒宴の歓声やら、

マージャン牌を混ぜる音やら、

 

テレビゲームの電子音などが聞こえてくる。

 

どこからともなく

落語も聞こえてきたりする。

 

それが平日休日の別なく、

時には夜通し続くのだ。

 

ある夜である。

 

いきなり耳をつんざく悲鳴が聞こえた。

 

初代スーパーマリオのタイムアタックを

延々とやっていた俺は、

 

コントローラーを握ったまま、

部室の中を見回す。

 

数人のサークル仲間が

思い思いのことをしている。

 

誰も無反応だった。

 

「今、悲鳴が聞こえませんでした」

 

と聞いたが、

 

漫画を読んでいた先輩が顔を上げて、

 

「エ?」

 

と言っただけだった。

 

気のせいかとも思えない。

 

サークル棟すべてに響き渡るような、

凄い声だったから。

 

そしてその証拠に、

 

まだ心臓のあたりが冷たく

なっている感覚があり、

 

鳥肌がうっすらと立ってさえいる。

 

部室の隅にいた先輩が片目をつぶったのを、

俺は見逃さなかった。

 

その瞬間に、

俺は何が起こったのかわかった気がした。

 

その先輩のそばに寄って、

 

「なんなんですかさっきの」

 

と囁く。

 

俺のオカルトの師匠だ。

 

この人だけが反応したということは、

そういうことなのだろう。

 

「聞こえたのか」

 

と言うので頷くと、

 

「無視無視」

 

と言ってゴロンと寝転がった。

 

気になる。

 

あんな大きな声なのに、

ある人には聞こえて、

 

ある人には聞こえないなんて

普通ではない。

 

俺は立ち上がり、

精神を研ぎ澄まして、

 

悲鳴の聞こえてきた方角を探りながら

部室のドアを開けた。

 

師匠がなにか言うかと思ったが、

寝転がったまま顔も上げなかった。

 

ドアから出て、

汚い廊下を進む。

 

各サークルの当番制で

掃除はしているはずなのだが、

 

長年積み重なった塵やら芥やら

ゲロやら涙やらで、

 

どうしようもなく煤けている。

 

夜中の1時を回ろうかという時間なのに、

 

廊下の左右に並ぶ多くの部室の

ドアからは光が漏れ、

 

奇声や笑い声が聞こえる。

 

誰もドアから顔を出して、

悲鳴の正体をうかがうような人はいない。

 

その中を、

 

確かに聞こえた悲鳴の残滓の

ようなものを追って歩いた。

 

そして、

 

ある階の端に位置する空間へと

足を踏み入れた瞬間、

 

背筋になにかが這い上がるような

感覚が走った。

 

やたら暗い一角だった。

 

天井の電灯が切れている。

 

元からなのか、それとも、

さっきの悲鳴と関係があるのかはわからない。

 

いずれにしても、

人気のない廊下が闇の中に延びていた。

 

背後から射す遠くの明かりと

遠くの人のざわめきが、

 

その暗さ静けさを際立たせていた。

 

微かな耳鳴りがして、

俺は『ここだ』という感覚を強くする。

 

このあたりには何のサークルが

あっただろうと考えながら、

 

足音を消しながら歩を進めていると、

 

一番奥の部室のドアの前に、

人が立っているのに気がついた。

 

向こうも気づいたようで、

こちらを振り返った。

 

薄暗い中を恐る恐る近づくと、

それは髪の長い女性で、

 

不安げともなんともつかない様子で

立っているのだった。

 

「どうしたんですか」

 

と声を殺して聞くと、

彼女はなにか合点したように頷いた。

 

たぶん彼女も反応したのだ。

 

バカ騒ぎする不夜城の中で、

僅かな人にしか聞こえなかった悲鳴に。

 

顔色を伺うが、

暗さのせいで表情まではわからない。

 

「俺も、聞こえました」

 

仲間であることを確認したくて、

そう言った。

 

「ここだと思いますけど」

 

女性のか細い声がそう答えて、

俺は視線の先のドアを見た。

 

プレートがないので、

何のサークルかはわからない。

 

頭の中でサークルの配置図を思い浮かべるが、

 

この辺りには普段から用もないので、

靄がかかったように見えてこない。

 

ドアの下の隙間からは

明かりも漏れておらず、

 

中は無人のようだったが、

 

ビクビクしながらドアに耳を

くっ付けてみる。

 

なにも聞こえない。

 

地続きになっている遠くの部屋で、

 

誰かが飛び跳ねているような振動を

微かに感じるだけだった。

 

頭をドアから離すと、

無駄と知りつつノブを握った。

 

カチャっと音がして、

僅かにドアが動いた。

 

驚いて思わず飛びずさる。

 

開く。

 

カギが掛かっていない。

 

このドアは開く。

 

後ずさる俺に合わせて、

女性も壁際まで下がっている。

 

心音が落ち着くまで待ってから、

 

「どうします」

 

と小声で言うと、

彼女は首を横に振った。

 

怯えているのだろうか。

 

しかし、

去ろうともしない。

 

(続く)声 2/2

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