トイレ 2/2

トイレ

 

僕は視線を床に落とした。

 

タイルの真ん中に、

排水溝の銀色の蓋が嵌っている。

 

便座から立ち上がり、

屈んでその排水溝を覗き込む。

 

中は暗い。

 

照明を遮る僕自身の影の下で、

何も見えない。

 

・・・ボソ・・・ボソ・・・ボソ・・・

 

囁き声はこの下から聞こえてくる。

 

僕はタイルに手をついて、

排水溝に耳をつけた。

 

正面の白い無地の壁を見ながら、

心は真下に向けて耳を澄ます。

 

・・・・・ボソ・・・・・ボソ・・・・・

 

遠い。

 

聞き取れない。

 

さっきよりも、もっと遠い。

 

何も聞き取れないまま、

やがて音は消えた。

 

僕は身を起こし、

その場にしゃがみ込む。

 

なんだ?

 

何事も起きないまま、

怪異は去った。

 

いや、

 

そもそも怪異だったのかすら、

よく分からない。

 

ただ小さな声、いや、

音が聞こえたというだけだ。

 

その時、

僕の頭にある閃きが走った。

 

もう一度『洗浄』のボタンを押す。

 

水が流れる音がして、

やがてその一連の音も収まる。

 

そして聞こえてきた。

 

・・・ボソ・・・ボソ・・・ボソ・・・

 

もう一度、

排水溝に耳をつける。

 

今度は空気の流れを耳の奥に

はっきりと感じる。

 

どういう仕組みか分からないが、

便座洗浄をするための水が流れると、

 

振動だか水圧だかのせいで、

排水溝からこんな音が聞こえてくるのだ。

 

くだらない。

 

肩の力が抜けた。

 

師匠もこんな単純なオチに気づかないなんて

大したことないな。

 

そんなことを考えていると、

笑いが込み上げてくる。

 

このトイレの話をした時の、

彼の真剣な顔が道化じみて思い出される。

 

そういえば、

最後に変なことを言ってたな。

 

確か・・・

 

『利き耳はだめだ。

 

利き耳は、現実の音を聞くために

進化した耳だからだ。

 

いつだって、

この世のものではない音を聞くのは、

 

反対側の耳さ』

 

バカバカしい。

 

師匠のハッタリもヤキが回ったってものだ。

 

僕は薄笑いを浮かべながら、

左の耳たぶを触る。

 

今まで確かになんの意識もせずに

右の耳を排水溝に近づけていた。

 

考えたことはなかったが、

右が僕の利き耳だったのだろう。

 

だけど左で聞いたからって

どうなるっていうんだ?

 

師匠を馬鹿にしたい気持ちで、

 

僕はもう一度、

床のタイルに両手をついた。

 

さっきと同じ格好だ。

 

入り口のドア側から体を倒して

床に這いつくばっている。

 

排水溝は個室の真ん中にある。

 

奥側は便座がある分、

這いつくばるようなスペースがないからだ。

 

スッと左の耳を床に向けた時、

得体の知れない悪寒が背筋を走り抜けた。

 

何だろう。

 

タイルについた膝が震える。

 

だけど止まらない。

 

僕の頭は排水溝の銀色の蓋に近づき、

その穴に左の耳がぴったりとくっついた。

 

さっきとは違う。

 

右と左では明らかな違いがある。

 

どうしてこんなことに気がつかなかったのか。

 

心臓は痛いくらい収縮して、

針のような寒気を全身に張り巡らせていく。

 

今、僕の目の前には壁がない。

 

右耳を排水溝にくっつけた時にはあった、

あの白い無機質な壁が、今はない。

 

左耳で聞こうとしている

僕の目の前には今、

 

洗面台の基部と床との間にできた、

わずかな隙間がある。

 

モップさえ入りそうもないその隙間の奥、

光の届かない暗闇から、

 

誰かの瞳が覗いている。

 

暗く輝く眼球が、

確かにこちらを見ている。

 

・・・ボソ・・・ボソ・・・ボソ・・・

 

左耳が囁きを捉える。

 

地面の奥底から

這い上がってくるような声を。

 

僕はその小さな声が言葉を結ぶ前に

跳ね起きてドアを開け、

 

外に転がり出た。

 

ドアから出る瞬間、

視線の端に洗面台の鏡が見えた。

 

顔のない僕。

 

あれは本当に僕なのか。

 

振り返りもせずに駆け出す。

 

角を何度か曲がる。

 

フロアに出た時、

 

騒々しいデパート特有の様々な音が

耳に飛び込んで来た。

 

冷たい汗が胸元に滑り込んでいく。

 

今見たものが脳裏に焼きついて離れない。

 

僕は壁際のベンチの横で、

寒気のする安堵を覚えていた。

 

たぶん、

 

床の隙間のあの眼を見てしまった後、

あの個室から逃げ出すまでの間に、

 

一瞬でも『このドアは開かないんじゃないか』

と思ってしまっていたら、

 

きっとあのドアは

開かなかったんじゃないかという、

 

薄気味の悪い想像。

 

そんな想像が沸いてくるのを

止められなかった。

 

(終)

次の話・・・「古い家 1/5

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