前を走る軽自動車から生える巨大な手
厳密に言うと、
この話は俺が洒落にならないくらい
怖いと思った体験ではない。
俺の嫁が洒落にならないくらい
怖いと思ったであろう話である。
俺の嫁は俗に言う『みえる人』で、
俺は正反対の『0感』だ。
嫁がまだ恋人の頃、
みえる人である事を俺に明かした。
その後しばらくの間は、
「あそこに女の人が居る」
「今、足だけが階段を上っていった」
等を言い出したが、
俺が本気で遺憾の意を表明した時から、
一切それ系の実況をしなくなった。
だがつい先日、
何故か俺にもはっきりと
不可思議な物が見え、
その時の嫁の反応を書いてみる。
山菜採りが好きな俺と嫁は、
いつものように山道を車で通行していた。
しがない自営業の俺たちは、
昨今の不況の折に開き直って、
平日の昼間に日がな半日程度、
山菜採りに精を出していた。
比較的心地よい疲れに伴い、
今日の夕飯は何かな、
天婦羅はもう暫く要らないな、
とか思いながら、
ボケっと運転していた夕刻。
俺たちの車の前を走る、
シルバーの軽自動車。
暑い日だったので、
前を走る軽の助手席の窓からは、
手が生えて見える。
運転者は老齢であろう。
決して生き急いでいないのが
見て取れる様に、
お約束の40キロ走行である。
ここまではよくある光景で、
次のストレートで追い越しをかけるか、
と思っていたその矢先、
嫌な事に気付いてしまった。
その軽の助手席の窓から
手が生えて見える･･･
腕じゃなく、『手』だ。
指まではっきりと認識できる。
バナナよりも巨大な手が、
前を走る軽の窓枠をがっちりと掴んでいる。
嫁はともかく、
今までそんなものが見えた事のない俺は、
瞬時に総毛立った。
すぐさま嫁に視線を移すと、
以前はこういう不可思議な現象に対しても、
ヘラヘラと笑いながら俺に実況していた嫁が、
目を見開いて硬直している。
常時見えている人間にとっても
只事では無い事例であろう事が、
0感の俺にも容易に推測できた。
そしてその手はこちらの熱視線に
気付く風でもなく、
新たな行動をし始めたのだ。
その手は掴んでいた窓枠を離し、
にゅーっと虚空に伸び始めた。
その手首には、
タイの踊り子の様な
金色の腕輪が付いている。
肘が車外に出ても伸び続け、
肩の手前くらいまでを車外に出した。
とんでもないデカさ。
そして突然、
自分が乗っている軽の天井を
叩き始めたのだ。
ボン！ボン！バン！バーン！ボン！
という音が、
すぐ後ろを走る俺たちにも聞こえてくる。
その時の俺はというと、
目の前で起こっている映像に
脳の認識がついていかず、
ただそのままぼーっと、
前を走る軽を追従していた。
「止めて！！」
嫁の悲鳴交じりの声が、
俺に急ブレーキをかけさせた。
前輪が悲鳴をあげ、
前のめりの重力を受けながら、
俺の車は急停止した。
今まで眼前にあった、
自分の車の天井を叩き続ける
巨大な手を生やした軽は、
ゆっくりと遠ざかっていき、
その先のカーブから見えなくなった。
夕暮れに立ち尽くす俺たちの車。
嫁は頭を抱え、
小刻みに震えている様にも見える。
俺も小便がちびりそうだったが、
なるべく明るく、嫁に捲くし立てた。
「なんだよ～？
お前いっつも笑って解説してたじゃん。
あんなのいつも見てたんだろ？
今回は俺も見えたけど、
すげえな、あれは」
しばらくの静寂のあと、
嫁が口を開いた。
「･･･あんなの、初めてだよ。
アンタは気付かなかったろうけど」
「なにがよ？」
「あの腕、邪悪な感じがしない。
かなり上位の存在だよ」
「じゃあ、
良い霊とか神様じゃね？
運転手が悪い奴で、
なんかそんなんじゃないの？」
「そんな訳ない･･･
絶対におかしい！
あんな上位の存在が、
あんな行動するわけがない。
やっている事は悪霊そのもの。
だけどあの腕は光に包まれてた。
･･･わからない。
自分の無知が怖い。
･･･怖い。
頭がおかしくなりそう･･･」
嫁の話を聞いていると、
俺も頭がおかしくなりそうだったので、
わざわざUターンしてその現場から離れ、
実家には帰らずに居酒屋に直行した。
二人で浴びるほど酒を呑んで、
近くのホテルで一泊した。
あの手は一体何だったのか、
俺は未だに全く理解できない。
ただ、あんな体験はこれっきりに
したいもんだと心底思った。
（終）
